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高校の振り返り

 

東大の話を聞いててある同級生を思い出した。高校2年生で高卒試験受けて一足先に東京にある底辺大学に入学して「なんか違うや」って辞めて東大に行った同級生がいた。大体、奴は突拍子もないことして、倫理観もたまにバグってた。先生や同級生らと口喧嘩を大抵はしてて、テストの点数だけは良くて、気まぐれな努力する天才だなーと観察していたのを思い出す。彼の家庭環境が終わってることは知ってたから、焦りもあったんだとは思う。同じ将棋部に入っていて、高校試合の時だけ顔を覗かせて、上手く将棋を指していく奴だった。大抵の部員は基本が幽霊部員で、中学の頃に将棋強くなってから、高校では試合にしか参加しないのがお決まりだった。わたしは、たまに来る部員はレアキャラだと認識していたし、従兄も将棋部員で彼との人となりとかは聞いてたから、彼と話したり遊ぶのは適度に楽しかった。他にも頭良くて倫理観バグってて、それをプライドにしてる奴は何人か居たから、その一人なのだろう位の気持ちではあった。

高校で通ってた桜並木の道とか、近場の古本屋とかホームセンターとか懐かしいなとふと思い出す。試合であまり使われないマニアックな将棋戦法を極めてることに快感を覚えながらダラダラと将棋について思案しながら、自転車を漕いで下校してた。今思えば、将棋で強くなり勝ちたいなら、試合でよく使われている戦法を全て覚えて、本を買って真面目に勉強すれば良いんだよとは言いたいけれど、そういう遠回りも、らしくて良かったなと思える。将棋の試合の時に、緊張し過ぎて駒を指す時に指がプルプル震えてたのも面白かった。意外と他にもそういう人はいた。

それで、帰り道にある婆ちゃんちに寄って、祖父の遺影眺めて、適当に喋ったり勉強したりして帰るのも悪くなかった。

 

◆天才について

幼馴染は医者目指してて頭良かったし、親しい従兄も頭良くて医者になってるし、一方でわたしはと言えば、いかに楽して生きるかを考えてて、大学も推薦で楽々に入ったしで、あんたら凄いなと思って比較しないように線引きをして生きている。こういうのは仕方ないで括っている。

 

頭いい子供が出てくるのは一定の条件があると思ってる。
まず親が努力なりで頭良い状態になってて、子供に頭よくなる方法を伝授して、子どもが素直な時に、それを受け入れたら完成すると思ってる。で、それが当てはまってなかったり、何かトラブルとかあって伝授されないと出て来ないんかなとか思う。
ガムシャラに筋トレしても効率よく筋肉つかないというか。適度に筋肉休めて修復期間をおかないと効率よく鍛えられないみたいな、知識がある上でトレーニング重ねるのと、知識なしで頑張るのとでは結果は違うよねという。


そういう環境的な差異は必ずあって、その差は時間と共に大きくなっていき、子供という吸収しやすい期間で幅は大きくなるとするなら、もうある程度の頭良さの差異は仕方ないよね、比べずにマイペースにいきましょという風になる。

 

◆過集中について

頭の良さって何なんじゃいって話をする時に過集中の話が上がる。その物事について集中して、他のことに気をとらわれずにいること。これをどのくらい続けられるかが頭良いかの差異になると考えている。

続きはいつか書く。