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このブログについて

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1.好奇心を満たして伸ばす

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3.健康体でいる

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[]コミュニティを作る?

好きな言葉

【新しいことに挑戦するとき】

  • Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. (Albert Einstein)
  • O God, give us
    serenity to accept what cannot be changed,
    courage to change what should be changed,
    and wisdom to distinguish the one from the other. (Serenity Prayer)
  • アノネ がんばんなくてもいいからさ 具体的に 動くことだね(みつを)
  • Done is better than perfect. (Facebook)
  • 多長根:人ごとに多くの長所や根源がある
  • 覚悟とは暗闇の荒野に進むべき道を切り開く事だ(荒木飛呂彦)
    ⇒解決策を自分の中に持つこと、
     そこに動いている構造を理解すること
  • 大切なのは真実に向かおうとする意志(荒木飛呂彦)

  • オレたちだけの「気持ちのいい道」だ。リンゴォの話だと、その先には「光」がある筈だ…「光」を探せ。「光」の中へ!(荒木飛呂彦)
  • 人間はただ生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。(人間、この劇的なるもの)
  • 愛せないなら通り過ぎよ(ニーチェ)

【その後の在り方】

  • 努力は結果への一手段である
  • 結果は運や環境にも左右される
  • 試行回数を稼げる環境を作ろう
  • 一切皆苦:苦しみを全て同じグループに括って意味や価値をならす虚無思考。

 

悪意について

常々、悪意をどのように評価するべきか考えている。
知らないうちに内側に秘めているものも含めてどのように扱うかだ。

何か腹が立つことをされた時に無自覚に自身が衝動的になって、その対象に悪意を反射することは人間であれば誰しも経験するはずだ。そして、この悪意は形を変えて正当化されたり、本当は悪意であるのに悪意でなかったと思い込むことがある。この悪意を自覚しつつ、仕方ないと割り切ることもしつつ、身の内にある悪意とどのように共存するのかが人生の課題になるはずだ。

これは人間の認知バイアスの話とも言える。例えば、何かについて議論しているときに、その動機が悪意へと切り替わり、議論の終着点など無視して、相手を貶めるためのゲームに切り替わるなどは認知バイアスがかかって自身の悪意を認知できなくなっているからだと考える。

また、どのように嫌われるかの話でもあるだろう。相手が論理ゲームを本当にしようとしているのか、悪意を持って負かそうとしているのかを判断し、相手が相手自身が持つ悪意に無自覚であるのかまでを含めて、それを認知し、動機を先に察知した上で、戦略的撤退、言語ゲームの放棄を行うことも悪意のループを継続させない1手になるのではないか。

しかし、この悪意を察知して論理を進めないという姿勢こそが、課題を解決しない姿勢となり、自身の中にある今後の課題への積極性を覆い隠してしまわないかは吟味する必要があるだろう。悪意を察知して言語ゲームの放棄を行うのは大事だが、同じくらいに論理ゲームを突き詰めて最適解を求める姿勢も両方を持ち合わせておきたい。

おそらく私が見つめるべきなのは、私自身が持っている無自覚な悪意と、その悪意がなぜ出てくるかの因果関係までを含めた考察のはずだ。そして、ある程度は諦めつつも、これは自動的反射行動なのだと理解しつつ物事を進める覚悟もいるはずだ。この理解と言うのは、自身以外の人間にも同様に訪れる特性でもあるということを忘れなければ、寛容の心を持つことはできるはずであり、衝動のブレーキとして機能するはず。

新作の鬼武者の感想を

 

新作鬼武者の体験版が開かれて、SEKIROであったりソウルライクのゲーム性に寄せたことによって今までのバッサリ無双系アクションとしての良さが減っていて、ファンはプレイ体験が思っていたものと何かが違うと言う意見をチラホラ見ていたので、前作と同じアクションを期待をしていた自分としては微妙なのかな?と思いながらプレイをしてみた。

実際にやってみた感じとしてはゲーム全体としてはそんなに悪くなかったと感じた。鬼武者1,2,3で遊んでいた頃の感覚を思い出した。ゲーム内で使われる素材の音であったり、時代劇的なアクション演出であったりと、そう言った場面への前作リスペクトがあった上で作られていて、その部分が個人的に響いたように感じる。一般農民たちが幻魔を恐れて逃げまどっている演出とか、鬼の小手を通じて見える禍々しい様相であったり、もっと小さい所で言うなら、選択画面のSEがカッカッカッで動いてたり、壺が割れるときの音だったりが個人的に世界観に引き込むときのあの馴染みの感覚だなと思わされて良かった。それと前作に感じていた演出の安っぽさが、今までカプコンが出してきたバイオハザード他作品を学んで良くなっているようにも感じた。

戦闘面に関しては、確かに使い勝手が悪いと言われるのも分かった。ボス戦に関しては前作もそういう所はあったし、ボスに対して一閃でやり合えるようになっているからここは良いように思った。ただ、一般戦闘での弓兵や遠距離の敵の扱いが微妙だと感じていて、矢を弾いての一閃、球を弾いての一閃がもっと汎用的になって、すべての敵に一閃で対応できるようにするくらいが、個人的には丁度良いのかなと感じた。体験版だから弓兵が多いとか、時代劇要素を強くしたいから、畳を翻して矢を避ける演出を作っているのかもしれないけど、一閃がもたらすスピード感重視のアクションと馬が合っていない気がするな。遠距離以外の敵がメインなら、そんなに苦にはならないだろうけど。

作りたいのだが腰が上がらない、テーマ選定

 

バイブコーディングを利用しつつ、個人でゲーム開発でもしようかとゲームの設計資料をまとめている。Unityでぼちぼち作ろうかなと。前に落ち葉落としゲームの設計をClaudeに投げて無料分で実装をやってみたのだが、それなりの動きはできた。ただ、ゲームを作るのを目的にしたいのかが、自分の中で違和感があるのだよな。

テーマはコード書きのアイデンティティを考えていて。

ある程度に習熟したプログラマにとっては特定のプログラム言語に対する執着は変であって、どちらかと言えば、言語の機能を理解して、その言語を用いてどのようなモノを作るかの過程、つまりメタファーとしてのアルゴリズムを自分の内側に持っているかが大事な気がしていて、だから流行り廃りでプログラミング言語が変わったとしても勘所を踏まえて別の言語を学ぶことができるし、それを利用して何かプロダクトを作ると言う過程そのものに楽しさをある種見出しているところがあるなと。

だからアルゴリズム信仰にあって。それは日本語を通じても図を描くことはおそらくできるだろうし、そういったものがある種の美しい形、好ましい形になるなと感じている。これはおそらく個人的な美意識とか美学的なものにも通じているはずで、コード書き特有の何か共通する好みがこの世にはあるんではないかと薄ら考えている。

これを小説にテーマにするのか、TRPGのシナリオのテーマにするのかは分からないが、そこら辺が自分が関わっている領域での創作に生かせそうな気がする。多分、この思想だけではダメで、何故なら、この思想は解決をしたいという思想であるから、解決がされていない事象と対面しなくてはこの残像を描くことはできないので、別の関心のあるテーマと掛け算することで書く感じになりそうかな。

解決したいという思惑は、おそらくクイズを作りたいという思惑と同じようなものなのだが、これと違うのは個人的に関心のあるテーマであり答えが簡単に出ないような問題である方が好ましい。これは数学で問題を解くようなものと似てるし、社会問題について記述するようなものとも似てるはずだ。プログラムで問題を解決するのもそうで、レイヤーをどこに置くかといった時に、生命に似たものを扱いたいなとぼんやり。

小説体験を

 

小説の話をしよう。印象に残っている小説は夏目漱石の坊っちゃんだ。あの話が当時好きだったのか、好きということにしたのかは分からないけれど、あの独特な表現に惹かれて小説を書いてみたいと思った。そうして書いた小説は下手くそでどうすれば面白い文書が書けるかの勘所を掴んで使いこなすのか見えていなかったように思える。というより、そう言えばそういうものがあったなと最近思い出してきたくらいでもある。

次の思い出は、未来の文豪と呼ばれた友達の書いたショートショートだ。地の文が「」の主人公に語りかけてくるという、奇妙な体験で短いながらも感動的な締めくくりで終わらせていた。小説って良いな。小説ってのがこんな身近なところで生まれ落ちるのだなと思った。

次の思い出は、あっけらかんと要点を話す将棋指しの部員に小説を読んでもらった時だ。句読点を使いすぎているから句点も使えるように意識したら良いんじゃないかと言われた。今でも覚えている。あれも下手くそだった。夢に出てくるような話と和風とバベルの塔を足したような話だった。何をテーマに書きたいのかを突き詰めずに悪戯に文章を書き進めていくだけだったように思う。

小説を書くのはなんだかんだで続けていて、書いてしばらく経つと飽きてまた別のを書きたくなり、思い出して読み返すと何か面白くもなく。しかし、どうせ何かを書くならばそれなりに読み耐えうるものを書きたいと思い始めて、しかし私には人間性への理解が足りな過ぎるからと、TRPGでもやって人と関わるかと思ったが、しかし関わったところで特に何も変わらずただ日々を浪費しているだけだったようで、最近ようやっと作品に対しての好みを自問自答してみるという手段を手に入れて、何が好きなのか何がどうしても嫌いなのかを分かるようになってきて、例えば「アルジャーノンに花束を」は嫌いなんだが、なぜそんなにも嫌いなのかと言うとSF的な設定やストーリーは好きなのだが、その最後にあるテーマがみんなが優しければ良いのにねというのがテーマですと、著者が後書きと前書きを使って吐き出しているのを読んで、なんでこの設定を持ってしてこの程度のメッセージ性なのか、もっと美しいテーマやメッセージがあるだろうなと、ここに希望していたがために落胆があるのだと気づいたりと。もっと言うならば、期待がない惰性的な趣味もあまり良くもないのだなも最近気づいたことであり、どうせなら期待を持てるような構成と枠組みを持って日常を生きていきたいものだなと思う次第で。

今は小説を書きたいかと言われればあまりそうではなく。書くためのピースが抜けている感覚が己の中にある。そのピースが何なのかは分からないが、清涼な泉の連想ゲームがふと巻き起こったりしない限りには書けなそうな気がしている。けれど頭の片隅にずっと書きかけで止まっている。

自然的なものとは

 

少子化対策でもし仮に技術的に可能になったとき、人工子宮によって子供の数を制御して生産できるようになり、おそらく社会主義的思想の元で管理されて、資本主義社会に送り出す構図になるとして、そうなった時にそもそも人を誰かの意思の元で作るのは倫理的にいいのか?という問いが生まれそうだと感じる。人を物理的に生産するという行為はまだ工学的な価値観で吟味されてない領域だから、もし仮にされるようになった場合に吟味されるはず。

自由意志で安楽死の権利はあって当然だよねと延長で、母体の赤子はそもそも生存欲求の意思表示ができず、赤子の権利を考えたときにその出生は自由意志に基づくのか?の倫理的問いに答えられない、もっと言えば文明存続のためにその権利はないものになっている。そうしたとき、自然というものをどう扱うのかを語り直すしかないと思っている。人間は自然が好きだけれど本質的には自然のように見える人間によって制御されたものを好む。庭的な美もそうだし、運にしてもそうでギャンブラーの錯誤のように同じ確率なのに次は出せると信じてしまう。山の手入れがされておらず、山の土壌汚染が起きて人間が食べたい山魚が減っていることに問題意識を感じ出したりするのも、自然を加工して使おうとする意思が働いている訳だ。

今、遺伝子操作された子供の誕生は良くないとされている、つまり倫理的には遺伝子操作することは倫理に反するし、自然的ではないと判断されている。じゃあそうなった時にどれだけ自然な風に装えば倫理的なのかが気になる。

優生思想のようなヒトラーの存在などを考えると、生物としてそう機能しているから正しいのだという形になっていくとそれも倫理がない方向に進むはずで、常に相反する考えの元で引っ張りあった価値の元、自然的な何かは決定づけられないといけなそう。

 

自然であるとは何なのかを考える時に、適切な反応速度のことだと思っていて、例えば移民問題に関しても、お互いの文化的な軋轢について十分に吟味されていないうちから移民を受け入れることによって問題は顕在化していくわけだけど、それが適切に対話されて対策を練った上であれば問題は起きづらくなる訳だし、カルピスの原液を水に溶かして飲む時に溶かしが適切でないと味にバラつきが出てきて美味しくなくなる訳だし、これは反応速度を考慮した上で対応をしていくのが一番良いと思われる。

しかし、現実はそうは待っていられるほど時間と金は余っていないわけで、適切な反応を促す情報なりをAIを活用していくのが今後の少しな希望なのかなとか。「知らないものがそこに存在している、それはこういうものである」とかを理解して、自身のもつ経験知識以外の存在について考える機会を増やすことが、今後の自然的な何かを模索する上で大事な行為になってくるはず。構造主義的な観点から言うと、人1人が共感できたり理解しきれる領域など限られるのだから、観測したり考えて見ることそのものが、自然的なあり方のヒントになるよって話かな。

ゲームのランダム数とかもそうで、本当のランダムよりも体感的に確立的に収束しているかのようにさも思える擬似乱数とかの方が好まれる訳だし。本当のランダムは運がめちゃくちゃ良い人とめちゃくちゃ悪い人を作り出すという側面もあるんだよな。でもそう言うのは倫理的にどうなのかな?みたいな感覚はあるわけで、本当のランダムも求めていなそうだよなとか。

明晰夢について

 

明晰夢が最近できるようになってきたのでメモ。

なぜかは分からないが、

  • VRをして立体を見て酔わない訓練
  • 演劇を見て考える
  • 本を読んで考える

生活になってから明晰夢のコツを思い出してきている気がする。大学になってから不要になったから忘れていたけど、カンを思い出しつつある。創作に役立つから取り戻すのが楽しみではある。

  • 夢で想像したものを記憶に留めるときに立体を立体のままに把握する時に、VR で利用する脳領域と同じ部分を使っている可能性がある?
  • 考える暮らしにシフトしているから、想像しながらそれをコントロールするカンを思い出してきた?明晰夢には適宜、想像をしなおす考え直すコントロール感が必要?
  • 小説の創作場面のことについて頭の片隅で考え続けてるみたいな、創作についての時間が日常にあることが大事?夢を見る前のカセット準備をしている感じはする。

 

 

抽象的な創造物への楽しみ

 

抽象的な創造物のほうが想像の余地があった方が良いんじゃないかという話をした。

例えば、登場人物の顔がイラストで添付されていない小説であったり、ドット絵で描かれた絵であったり、輪郭や表情がくっきりとしていない人物の抽象画であったり、ゴッホの自画像とかも含む。こういった写実的でない、明確な輪郭を提示しない、想像の余地を残した創作物の方が楽しみが湧くというもの。

絵は存在しないものを描いても良いものであって、そうであるなら、生き物を描くのであれば、その生き物を見た時に生じる感情の向きを調整するように描くのが一番効果が高いのではないか。

例えば怒りの感情を宿しているならば、赤を中心とした色で淡く描くとか、落ち着いた印象を抱かせたいなら、青や緑で淡く描くとかだ。

 

3Dの立体ポケモンになってからポケモンがそこまでしっくりこなくなったのは、元々2D用に作られていたキャラクターデザインが無理やり3Dに落とされたためにバランスを崩した以外にも、輪郭が明確になってしまい、ドット絵の頃にあった抽象的想像の余白がなくなったからなのかもなと思い出した。