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人間的な自由とは

 

 前に自由について考えた。

september36.hatenablog.com

 

 結論としては「真の自由とは人間性を捨ててあらゆる進化を遂げること」だと考えた。今度は、人間的な自由について書いてみる。そう考えている時に面白い名言を見つけた。「地獄とは他人である」だ。

 

「人間的な自由」は天国と地獄のはざまにあるんじゃないか

mini-post-uk.blogspot.com

 

「地獄とは他人である」は、他人からどのように判断されるのかを悶々と考えて己を捻じ曲げていくようすこそが地獄だという表現だ。

表向きの華やかな日常を綴らなくてはならないという焦りによって、己の感情を捻じ曲げ、内面にストレスが溜まっていく人たちが想像できる。人の影響を受け、対面を永遠に繕い続けることかな。こういうのは悲しいように思いながらも、これこそが人間らしさでもあると感じれる。地獄の想像は人間らしいからこそできる。

 それじゃあ一方で天国は何だろうかと考えてみる。

「天国とは自分である」かなと考えてみた。自分がどのようになりたいのか悶々と考えて己を変化させていくようすが天国だという表現だ。自分本位に世界が動かせればそれは満足するだろう。本当の天国はあらゆるものが自分で構成されている世界だろう。他人が居れば評価される恐れに苛まれる。それなら、他人を自己と同一化させればいい。

 

こうして見たときに、天国にいる人間も地獄に居る人間も、どこか人間離れしているのだ。地獄の住人は自我が存在しないし。天国の住人はわがまま過ぎる。丁度いい塩梅で、他人からどのように判断されるのかを考えつつ、自分がどのようになりたいのかを考えて変化していく生き方、地獄と天国の両方を感じ取れる生き方だからこそ、人間らしいのではないかと考えれる。

カントの自由論から「人間的な自由」のヒントを得る

 カントの自由論からヒントを得て自由について考えてみる。

○参考:https://moncafe.ti-da.net/e3803663.html

個人的な意訳を含めて、カント的な自由は

  1. なるべく多くの行動を、自己を物語るための行動として再定義して認識することが大事である。その行動の積み重ねが人格になる。※考え込まれた行動体系を指しているみたい
  2. 人格を認めないというのは相手を価格として見なすことになる。それは差別的だ。
  3. 他者の人格を尊重し、自己の人格を作る姿勢が「道徳」であり。「道徳」に従って生きることが自由である。※「道徳」は人によって異なるので自分で作る必要がある。

という意味だと理解した。*1

他者の物語のみを尊重する生き方は、前で語った「地獄」に該当すると考えている。自己の物語のみを作るのは「天国」だと捉えている。両者とも人間の本質だと感じる。社会性を手に入れて生きていく上にはどちらも必要な要素だろう。この意見には概ね賛同できる。

 

自分にとっての道徳って何だろう。自分なりの道徳について考える記事を作ってみてもいいかもしれない。

  •  自分の物語に必要な行動をテキトウに上げて、その際に他者の物語と干渉しあう場面を想像して経験して、互いに上手く行くような解決策を練っておくこと
  • そういう事前の気持ち
  • 他者の人格を予想すること

あたりかな。

*1:「条件付きの行動は駄目だ」と書かれているのは腑に落ちなかった。他者由来の条件付きの行動はダメだけど、自分由来の条件付きなら行けると思う。一歩目を踏み出す勇気と百歩目を踏み出す勇気が一緒に思えない。