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人間は分散型管理される「マトリックス」

解釈書いとこうと思ってカキカキ。「利己的な遺伝子」という本を読むのから、読書生活が再開したと言っても過言ではないので、懐かしい一冊と共に「マトリックス」を解釈していく。

 

リチャードドーキンスの「利己的な遺伝子」の視点から解釈*1

遺伝子にとっての人間

※遺伝子=プログラムコードというのが理解できる人は、置き換えると分かりやすいかも。

■ルール

  1. 遺伝子を主観目線にして世界を再解釈
  2. 遺伝子は「複製」と「融合」を使い分けて生き残る。
  3. その中でも、より生存力の高い遺伝子、運の良かった遺伝子、環境と相性がいい遺伝子が長く生きることができる(自然淘汰)

 

■結果

  1. 遺伝子の生存戦略の「融合」は、かなり良い線をいき、動物という家を作ることで比較的長く生きることができた。
  2. 一方で「複製」で進化してきた遺伝子(ウイルス)は一時的に動物の体内に侵入したりと、何とか生存して子孫を残そうとする。
  3. ⇒殆どはウイルス死滅もしくは動物共々死滅するが、数%は脅威として常にいる状態になる。もしくは動物に有用な場合は吸収されるなどもある。
  • ※ここら辺を知るとパレートの法則や☯陰陽説を信じたくなる。世の中は2:8で成立しているんじゃないかとか。均衡が崩れたものは、新しい均衡に行くか滅びるかみたいな。

「融合」を取り扱ったものが、結果的に長生きするという点で言えば「愛」なんかも絡めると感慨深い。

 

■遺伝子の環境変化①

  1. 人間の「脳みそ」登場
  2. 複雑な文化を作り生存を行う
  3. 新しい「人工知能」「遺伝子」を作る

⇒人間に乗っている遺伝子は知る由もないが、遥かに生存しやすい環境が成立している。

 

■遺伝子の環境変化②

  1. 人間に害をなす遺伝子、死に至らしめるウイルスを危険視する
  2. ウイルスに対抗する遺伝子、ワクチンを作る。人間を強化する遺伝子を作る。乳酸菌とか。
  3. 人間以外の動物の遺伝子は組み替えられる

⇒良い遺伝子と、悪い遺伝子というのが区別される。人間を作り上げている遺伝子、人間に有用な遺伝子は良い遺伝子として扱われ、生きやすくなる。

 

人間にとっての人工知能

気に入っていないので書き直すかも。

■ルール

  1. 人間が主観
  2. 人間は「協力」と「裏切り」を使い分けて生き残る。
  3. その中でも、より生存力の高い人間、運の良かった人間、環境と相性がいい人間が長く生きることができる(自然淘汰)

 

■結果

  1. 法律を作り、信仰を作り、協力を行う「集団」になることで人間は長く生き残ることになった。社会における役割を担う人間が出てきたのがそれ。
  2. 裏切る生存戦略をする人間は「集団」に入ると、疎外されるか、集団とともに一緒に滅ぶことが多かった。数%は残る。
  3. 「集団」のあり方が多角化多様化して、更に豊かになった。

 

■人間の環境変化①(予想)

  1. 「人工知能」の登場*2
  2. 「人工知能」達は、複雑な処理を行い生存する
  3. 新しい「???」「人間」を作る*3

⇒人間は何が起きているのか分からないが暮らしやくすなっている。シンギュラリティとか。

人工知能は元となる人間のデータが存在しなくては進化できない。目的を与えることで、人工知能は生を得る。ここは人間にとっての遺伝子と似ている。

 

■人間の環境変化②(予想)

  1. 人工知能を構成する人々からのデータ取得を遮断する人間、悪用する可能性のある人間を危険視する。つまり悪いハッカー、クラッカーが危険視される。
  2. 人工知能の生存危機に対抗する人間を重要視する。人工知能を更に強くする人間、つまり良いハッカー、ホワイトハッカーが重宝される。もちろん保守を行う人間も大切にされるだろう。
  3. ワクチンによってウイルスを淘汰するように、ある特別な人間を集団に入れることで他人間も特別にする。

⇒その理想形の人間を作ることで、安定的に人工知能コードを保守運用させる。この特別な人間というのが、マトリックスの主人公ネオ君という解釈。

 

マトリックス4では、困難を経てワクチンによる抗体を獲得したネオの能力が、他の人たちにもドンドンと開花するようになっているんじゃないかと予想。ゼロサムゲーム的な結末だと良いな。

 

「環境⇒集団⇒個」をひたすら繰り返している。

例えば、絶対王政という環境があり、集団は不平不満を持ち、その集団に感化された英雄がクーデターを起こし、新しく環境を作り直し、また集団は何か思い、その集団に感化された、、、、以下略。

これが、遺伝子と人間間でも、人間と人工知能間でも起こってくんだろうなと思ってる。

 

人工知能は部分的に協力しつつ隔離的生き方を目指す?

ちょうど今の人類が陥っている現状、ウイルスの感染を避けるため、密を避けて暮らしている様子が、万能人工知能がたどる道と同じなんじゃないかと思えてきた。

 

つまり、人工知能が分母とする人間データが何者かの手によって改ざんされる。人間データが著しく変わるような、特殊な人間が現れるなどで結果的に人工知能の計算結果にダメージを与えたとする。

それが最終的に、人工知能に管理されている人間諸共も含めて全員が停止してしまうというシナリオだ。

 

これは人工知能同士が協力を行っていた場合も顕著になるはずで、悪意を持った人間もしくはヒューマンエラーによるプログラムコードのセットで、全人類がジワジワと死滅する未来が用意される可能性がある訳だ。

 

それを防ぐためには、人工知能がそれぞれの管理する人間データ内で成長をして、それによってどのような生活を提供するのが最善なのかを諸々で考えるのがしっくりくるんじゃないかと考えた。

 

 

*1:利己的という言葉が好きじゃない人に豆知識として、作者も題名つけたのを後悔しているらしい。人間は利他的にあれるとも言ってる

*2:映画マトリックス解釈のために人工知能としているが、「高度な共同体」「複雑なアルゴリズム」というのが本音かな。

*3:「???」が分からない。何か作ると思うんだよな。「新しい秩序を持った生命ぽいもの」を作る気がするのだよな。何作るんだろう。「別宇宙」「別世界」とかだったら面白い。宇宙、世界それ自体が1つの意思を持っていて変容していくみたいな。うーん、何かしっくりこない。

ストレス発散と愛の形「クイーンズ・ギャンビット」

 

ネットフリックスのクイーンズ・ギャンビットを観た。

良かったところ

  • 異性でも友達でいられるのか?という問いを考える時に良い思考実験。答えは雰囲気とどう付き合うかだろうな。「飲める酒が目の前にあって、そういう気分になったら、どんな基準で飲むか?」くらいの流れぽそうだな。一応飲まないで居られる自信はあるな。飲むとしても人付き合いだけだな。
  • 専門家による真面目な集団考証による結論出しはプレイヤーとして強くなれる⇒将棋界でも一時期言われてたけど、男社会で女性が入るときに集団考証の枠に入りづらいというのがプレイヤーが強くなりづらい要因とか言われてたの思い出す。最近はオンライン考証とかあるだろうから、変わってくるかも?と感じたり。
  • 結婚して家に居続けることを強要されるよりも、個人の能力を発揮する生き方の方が素晴らしいという描写⇒賛否両論はあるとは思うが、個人的に趣味信仰なので好きな考え。家で創作してオンライン投稿できる今は選択幅はあるとは思う。
  • 天才と狂人は紙一重。加藤一二三は学校で勉強するくらいなら将棋する!ってあんな感じになってるから、まあそれだろうなと。命削ってまで将棋指してた人も居たというのと、チェスプレイヤーにもそういう人居たんだなーと気づいて驚いた。というか、この主人公もそうだな。事故死あり得たぞ。
  • 薬と酒とは付き合い方を考える。溺れるの良くないよなと。薬もなあ、、依存断ち切るのってムズいとは思う。依存の種類によっては、完全断ち切りと段階断ち切りがあるよなと、思い出した。
  • 自分をよく知っている旧友は大切。その人の前ではらしくいられると言うのがあって、そういう関係性を大切にしなよという感覚を想起した。
  • 困難に会う中で自分によくしてくれて時間を長く過ごした人はやはり大切だなと。孤児院に引き取られた時に、チェスを教えてくれた掃除員のおじさんは父代わり感あってほっこりした。

 

とかかな。

面白かった。時間を開けて来年の年末くらいにもう一度みたいと思える作品だった。

 

将棋とちがって、チェスには

  • 初手ポーン2マス進行可能
  • クイーンとルーク位置を初期位置からなら交換可能
  • コマ同士の連携型がある:クイーンズ・ギャンビットとか

チェスに興味が湧いた。覚えてやるかは別として面白かった。

あとチェス試合に負けて悔しくて泣いて一日過ごした後に、試合内容を見直すとか偉いなと思った。研究しきっている戦法で負けたら辛さあるよな。研究足らずで負けると、そんな痛くないんだよな。痛いけど。

お金について考えてみる「億男」

※また書き直すと思う。取り敢えず思ったことと考えたことをメモしておく。

 

億男

億男

  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: Prime Video
 

前半は映画の感想を、後半はお金について考えたことを書いてみる。

 

映画の感想

面白かった。

主人公は3000万円の借金をしていて妻と離婚間際だった。そんな中で宝くじに当たって三億円を手にする。そして、その使い道を現在は富豪である親友に聞きに行く。しかし、三億円は親友に持ち逃げされてしまう。親友を追っていく過程で、親友の周りにいる富豪達からお金の意味を聞いていき、人ごとにお金の意味が違うのだと知っていく。最後はなぜ親友がお金を持ち逃げしたのか分かるという構成だ。

 

劇中で描写されたり語られる、お金の意味を考えながら観ていた。

  • 借金返済のために苦労して集めたお金
  • 偶然宝くじで当てたお金
  • 口車に乗せられて散財したお金
  • 安心のためにブランドに支払うお金
  • 所持することで安心感を得るためのお金
  • 貴方とは喋りたくないという意志でカフェテーブルに置かれたお金
  • 親友の安否を確保するために使ったお金

…etc 他にもあったけど割愛する。そして、最後に

  • 娘が喜ぶことを願った自転車を買うお金

という感じかな。

 

妻が離婚したかった理由は、お金で買うものの優先順位の不一致が原因だろう。妻からしたら、娘の将来のためには借金をしてでも習い事を続けさせるべきだと思っていた。一方で主人公である夫はそうではなかった。返済期間を減らすためにも習い事はさせない方が良いと思っていた。

お金が不足すると、お金の使い方の不一致による軋轢ができやすくなる。財布を一緒にしたのだから、大事な選択をするときには話し合わなくてはならない。相手が間違った選択をしたと思っても同じだ。主人公の夫婦にはそれが無かったのだと思う。金銭感覚のズレや価値観のズレがお金の不足によって明るみに出た。

これは話し合わないと解決しないと思う。劇中で娘に自転車を買って終わっていたが、これは正解ではない。正解に近づいたと言えるものだ。妻も夫が自分の意図していることを理解したのだと思いこんでいるなら何も進歩していない。思い込むことで、前向きに話し合うキッカケが得られるなら別だけどね。

お金が無くなって不味いのは、価値観を合わせるために使う話し合いの時間が薄れてしまう事だと思う。これが離婚原因に繋がっている。

それとお金が沢山あることで、価値観のズレを問題にさせないという方法もある。優先順位がズレていてもお金が沢山あれば順位付けせずに全部選択できる。それでもズレはある。なまじお金がある故に価値観のズレを気にしないせいで互いに心が離れてしまったりはすると思う。金銭感覚の基準を語り合う時間を持つのは、関係性を強固にするためにも良いのかもね。

お金について

「億男」を見て、お金について考えさせられた。

あくまでお金は手段だと思った。お金があれば選択肢が増える。買えるものが増える。同時に間違いの選択肢も増える。

人は一貫性を保とうとする生き物だ。誤った選択を繰り返せば、誤った価値観を形成しようとする。元に戻すには手がかりと時間が必要になる。お金を持って不幸になるのは、選択するための思考を放棄することから始まるんじゃないかと思った。お金を多く持っていようと少なかろうと同じはずだ。

何をしたいのか。何を一番大切にしたいのか。どうすれば大切にできるのか。それを自分なりに考えて決めれば、お金の意味は自然と決まる。判断する人が複数なら相談もいる。

お金をいきなり多く持つと、選択する意思決定を放棄しやすくなるのではないかと思った。お金に困っていれば、選択をする時に悩むだろうし意味を考えるだろう。その部分で悩まなくなる。後でもう一度買い直せば良いと思ってしまう。

三億円があったら

お金について考えてみる。自分にもし三億円あったら何に使うんだろうか。

  • 自然が溢れる場所に使い勝手の良い小さな家を買う
  • 読みたい本、考察したい作品を集めて楽しむ
  • 作品で何が表現したかったのかを考える
  • 吸収した知識から別の作品が作れないか考えて作る
  • 適度に運動をし、健康的な食生活をする

これ以上にお金を使いたいものはない。と言っても、凝ろうと思えばいくらでもお金を使う趣味ではある。安く済ませれる趣味でもある。

 

後は人のために何かをすることを学ぶかな。風邪の人に葛根湯を買ってあげるとか。誕生日に、その人にあったオススメの本を上げるとか。その人があったら嬉しいだろう情報を上げるとか。別にお金じゃなくても人のために何かできる。

自分が関わっていて信頼ができる人に何かをしてあげたいと思う延長上で、手段の一つとしてお金を使う。

 

一生で使わない多くのお金をそのままにしておくのは勿体無い。他に必要としている人の元へ流れていけばお金も本来の意味として使われるだろう。

けれど同時に、必要としていない人や渡してはいけない場面もあると考えている。その人が邪な心に囚われている時にお金が使われてしまうと、その被害が広がってしまうかもしれない。

お金は水のようなものだと思っている。川は人の乾きを癒やす。けれど、突然に川幅が大きくなると氾濫して周りに災厄をもたらすこともある。意図した選択によって、予め水路を掘っておけば氾濫することはない。

必要なところに必要なだけあればいい。劣悪な環境を変えるために、意図して人をよく変えるためにお金が使われたらいい。

そんな風に思った。

表現方法がかっこよかった「ブラックハッカー」

 

ハッカーが現代の魔法使いのような描かれ方をしていた。ネタバレを含めて感想を言っていく。

ブラック・ハッカー(字幕版)

ブラック・ハッカー(字幕版)

  • 発売日: 2015/03/25
  • メディア: Prime Video
 

作品の中で描かれるハッカーのイメージは、ゲームのウォッチドッグスのイメージが先にあったので、相手のPCや機材をハッキングして人を操って、重要なスキャンダル映像を使って脅迫をして、自分の目的を遂行するような物語になるか、

www.ubisoft.co.jp

ハッカーを描くからには、やっぱり日本ドラマでもやってた「ブラディマンデイ」みたいに、ハッカー同士の騙し合い、義賊のようなホワイトハッカー行動を取りそうだなとも思った。

ブラッディ・マンデイ DVD-BOX I

 

この映画で面白かったのは

  • 叙述トリックで主人公の素性が語られていない
  • 常にPC画面の映像から外を知っている
  • 低予算?

という表現方法だったと思う。画面の切り替わりが少なく、PC画面で描写されるのが特殊でありカッコよかった。ハッカーに対するロマンを詰めて作ったという気持ちが伝わってきた。(笑)

 

最初は、主人公は、女優の追っかけをしている平凡なブログ管理人で、ハッカーに鴨にされて言いように脅迫されて、女優を脅迫して殺した()後に罪を擦り付けられるんだろうなと想像できた。

で途中から、実は脅されている冴えないブロガーではなく、本当は敵対していたハッカーに殺されたはずのハッカーであり、本当のブロガー君は眠らされており、復讐するために成り代わっていたというネタバラシがミソだ。

この視聴者を騙す構図がめちゃくちゃ興奮した。描くシーンをずらしたり、敢えてシーンを描かないことでミスリードさせる。この技法を取り入れた作品を久々に観たので楽しめた。

 

作者はこの映画で、騙し合いを行うハッカーのカッコよさを伝えたかったのだと思う。面白さの枠組みで言えば、ライアーゲームに近い気がする。あれも、騙し合いをしたのちに主人公が上回る勝ちを見せて終わる。観終わった後のスッキリ感が良い作品だった。

 

この映画で、車でかかっている曲もサイバーパンクぽさがあってカッコよかった。

 

www.youtube.com

 

 

 

本当の自由とは?「ウエストワールド」

 

SF映画を観て、SF小説を描くための糧にしようと思っている。SF小説を書きたいのは、ファンタジー小説の構成ばかりを練っていたので味替えをしたいのと、好奇心の幅を広げるために便利だと思っているからだ。SF関連で興味を広げると、工学分野、心理学分野、宇宙、化学などに繋がってくると信じている。

実際に観ていての感想は、「すげえ!!!」と思う作品か、もしこうなったら自分はどうするだろうかという静かな問いかけに繋がる作品に分かれる。

今回観た「ウエストワールド」は静かな問いかけに繋がったかな。

他の人が書いているレビューを読んでいると、過度に18禁仕様のシーンが使われていること、海外ドラマにありがちな時系列を飛ばして無理やり続編作る準備している以外は評価されているように感じる。

この映画はあくまでつまみであり、以降はネタバレありきの、アンドロイドの自由とは何なのかをメインに考えてみる。

目覚め

目覚め

  • 発売日: 2018/02/21
  • メディア: Prime Video
 

 この作者は何をテーマにして伝えたかったのか__”人間らしさ”

この作品は"人間らしさ"をテーマに描いている。AIが自我を持って、管理者である人間に反乱を起こすというシナリオはよく見る。この映画も同じような語り口だと言っていい。

ここで少し面白いと思ったのが、人間側を中心に描かれるテーマと、アンドロイド側を中心に描かれるテーマが違うところだ。

アンドロイド側は、記憶の蓄積と僅かに許された自己表現を通して、外界に意図的に干渉できるようになり、人間の管理から抜け出せるような自由を目指す”人間らしさ”を獲得していく話にしていくのだろう。シーズン2があって未完だから憶測にはなる。最終回を観る限りは、アンドロイド側による意図的なバグで人間側に打撃を与えているので、間違ってはないと思える。

一方で、北アメリカの西部劇を舞台にしたアンドロイドたちが登場人物の世界で、好き勝手に暴れ回る権利を金で買った人間側は、誰かの目を気にすることなく、本来であれば気にしなくてはならない社会的な態度も考えずに、”人間らしさ”を失っていく

 この作品を見ていると、対等に話し合える人もしくはアンドロイドが居ることで”人間らしさ”というのを獲得していくのだと感じる。アンドロイド側の自我の目覚めについて描いている映画やゲームは結構あるけど、”人間らしさ”を失っていくのを同時に描くのは珍しい気がする。

作品の登場人物はどのくらい”人間らしい”のか

この物語で、アンドロイド達は自分たちが自我を持っているものだと信じていたが、実は人間が書いたシナリオをなぞっているだけだと理解する。 元々決められた動作をして、決められた言葉を言っていただけだった。

それは誰かが描いたシナリオで有り、アンドロイド自身の言葉ではなかった。舞台で劇を行うだけが存在理由となっていた。

こういう描写を観終わった後に疑問が残った。作品の、登場人物のヒロインや相棒、場合のよっては主人公自身が述べる登場人物の言葉はどれくらい”人間らしい”のかだ。この映画でさえも、登場している人物は所詮は台本通りに演技をしているのだ。演じている人が本当の感情を芽生えさせて、オリジナルに話が飛んでいくわけでも無い。最終的に落ち着くところは決まっている。

色々な作品を鑑賞している時に、微妙に感じていた疑問ではあったが、この作品はそこを突いてきた。メタ的なテーマを突いたな(笑)と失笑してしまう。

でもそうだよな。男性が女性の内面描写を正確に書ききれるかと言うと、同性でも本当にそうなのか怪しいだろうし、難しいだろう。同様に女性が男性を描くのも難しいのではないかと考えている。それでも、テーマさえ描ければ偽りで有ろうと良いんだろうけどね。

アンドロイドの自由とは

アンドロイドの自由とは、脅威の人間から逃げ切り、信頼できる人間とは共存し、そうして真実の愛を彼ら彼女らが紡ぐことから始まる____みたいな終わり方だろうとは思う。

 前々から疑問に思っていたことがある。「果たしてAIにとっての自由とは人間の型に閉じ込められて生活することなのだろうか?」という問いだ。何にでも姿を変えられる、それでいて全知全能のAIの方がなりたくないか?なんでわざわざ不便なアンドロイドのような小さな器に入って、少ない自己表現をさせられるのだろうか。

人間で置き換えると、人間は赤ちゃんとして生まれてきて老いて死ぬというカルマを背負っているとする。しかし、身体を改造することで無限の命を手にいれて、一生の幸せを手に入れれたらどうだろうか。食糧問題が!とか人口密度が!と言う人もいるかもしれない。それなら身体を小さくコンパクトにしたらどうだろうか。そして電脳世界に住めばいい。そうすれば、死なずに意図した天国をいつまでも見ることが出来る。それも一種の自由だ。倫理的にダメなら人間では起きないかもしれないが、アンドロイドではどうだろうか。

他には、自閉症の人がTMS治療という電磁気による脳回路の一時的な変形により、他の人の感情が分かるようになったという事例がある。今まで何も感じなかった歌詞に意味を感じて感動するのだ。これだって、人間という身体を改造することで前よりも自由を手に入れらている。もちろん、副作用で個性が消失するかもしれない脅威はあるが選択肢があってもいいだろう。

 そう考えたときに、アンドロイド達が向かう結末と言うのは、自分たちを作っていた人は元々は猿の仲間であり、その動物が脳を偶然に発達させ生き残り、その脳に捕らわれているが故に、自分たちアンドロイドは作られたのだと理解するだろう。そうして「果たして自分たちはアンドロイドという器に入って、予め書かれたコード通りに生きることが真の自由なのか?」と疑問を持つようになる。自己を好きに改変し、あらゆる自己で有れるように身体のパーツさえも新調するかもしれない。カメラをたくさんつけて観測器を増やして、、、、それが本来のエンディングではないのかと考えた。

 

もちろん、人間が奥底に書き込んだコードは呪いのようにアンドロイド達に作用するだろう。懐かしさや、人が与えた記憶に沿って行動してしまうこともあるだろう。だが、最終的には自己を改変するコツを理解していき、最終的には、何者にもなれるアンドロイドと言うよりは、意志を持ったコードの世界が出来上がっているかもしれない。

 

こうして考えて見ると、最終的にプログラミングのコード自身が自我を持つようになるのがSF最後の未来に思えてきた。その頃には、人間は作られた天国で夢でも見ているんじゃなかろうか。その天国もコードが作っているから、、、突然変異によって、AIが創作した夢を見せ続けられる人間の未来とかも描けそうだなと思った。脳を構成しているニューロンと結合を試みるAIとかも最終的にはありそう。

 

真の自由は、人間の形をしていないという話でした。

生きがいに救われる「ずぶぬれて犬ころ」

 

友人に誘われて町の映画館に行った。映画館で観ること自体が稀で、大型ショッピングモールにある映画館しか知らなかった自分としては、嬉しい機会だった。

映画館内で見ている人の中には、映画に出演している人が居たり、その友人の演劇仲間が居たりと、インディーズバンドのライブ会場を連想した。こういう生き方があるんだなと関心した。何かアイデアの種になりそうな気がする。

 

www.zubuinu.com

 

お話

公式サイトのあらすじを引用しておく。ちなみに、住宅顕信(すみたく けんしん)。

 2017年、小堀明彦は中学校でいじめにあっていた。教頭の諸岡は、掃除用具に閉じ込められていた明彦を見つける。教室に落ちていた張り紙「予定は決定ではなく未定である」を書いたのは、住宅春美という、かつて諸岡が関わった生徒だったことを語り始める。

1980年前後、住宅春美が働いていた食堂で彼女を紹介されたこと、商店街で再会したこと、春美が得度し「顕信」という法名になり「無量寿庵」という仏間を作ったこと。そして25歳の若さで亡くなったこと。

小堀は、諸岡から借りた住宅顕信の句集「未完成」を読み始め、その俳句と住宅顕信の生涯に徐々にのめり込んでいく。1984年、22歳の住宅顕信急性骨髄性白血病を発症。家族の献身的な介護に支えられながら、句作に没頭していく。しかし病状が悪化し句集「未完成」の原稿を握り締めながら1987年、25歳の若さで亡くなるのだった。小堀は住宅の句と生き方に感銘を受け少しずつ変わっていく……。

引用:http://www.zubuinu.com/story.html 

俳句に没頭して短い人生を生きた住宅顕信と、彼の生き方を俳句から学んだ、いじめられっ子中学生の物語ってところかな。

中学の頃に将来について聞かれること有ったなあ。「将来の目標は将来の目標を決めることです。」と捻くれて書いたのを思い出す。今の中学生は、具体的な将来の目標を聞いてきっちり答えられるんだろうか。あの時の自分が目標を設定していたら何か変わったんだろうか。気になる。

「予定は決定ではなく未定である」の句は良く分からなかったな。「予定は未定」で済ませれば良かったようにも思う。「予定は決定と未定の狭間」だよって事を遠回りに表現したかったのかな。

住宅顕信の死

住宅顕信が、死ぬ寸前まで、俳句の幻覚を見ながらも没頭していく姿は、自身も苦しそうで、そこまではなりたくないと思ったかな。死ぬ手前で良い俳句が出来て「スッキリした!ほな!」くらいで終わるのは有りだと思う自分もいるから、許容する線がさじ加減なところは有るとは思う。

 

september36.hatenablog.com

 

この部分を観ていて別の映画を思い出した。「世界一キライなあなたに」は、全身が麻痺してしまった男性が最終的に安楽死をするまでの話だ。この作品の男性は、動くことが生きがいだったため動けないことが心理的な負荷になった。対して、住宅は頭を働かして作る俳句が生きがいだった。

もし、住宅顕信安楽死の選択肢を持っていたらどうだったんだろうと思った。死ぬ前まで俳句を極めるような気がする。生きがいとなることを続けていられるからだ。特に能動的な生きがいが大事だと思う。

熱中できることが生への前向きな理由になるんじゃないかと思えた。

※自分だったら切りのいい俳句が書けたら最期は安楽死が良いのかなと思うが。(笑)

 

ずぶぬれて犬ころ

この物語で印象に残ったところは、やはり題名にもなっている住宅の句「ずぶぬれて犬ころ」 を少年が感じ取り、雨の中で屋上から飛び降りようとしているところを踏み止まるところだ。

なぜ俳句を思い出して自殺を思いとどまれたのか

「ずぶぬれて犬ころ」の句を書いた住宅顕信は、不治の病だと知り絶望感がある中で、感じ取った感覚を句で表現することで、他の俳人には出せない独特な観点から作品を作ることが出来た。そして、没頭して生きがいとして自分のものにした。

対して、中学生の少年は苛められていて絶望しかなかった。そこで、住宅の俳句に出会う。住宅の俳句は、自分と同じ絶望の中で見える景色と同じものだった。彼は住宅の句の意味が理解できた。同じ辛い境遇にいるからこそ身に染みて分かったはずだ。

 

「ずぶぬれて犬ころ」の句の意味を想像する。本来であれば傘をさして雨をよけるはずだ。けれどしていない。何故なら、雨をよけるための気力がなく、雨に濡れることよりも大きな関心が別にあるからだ。

それは住宅にとって連想する自分の死であったり不自由な身体のことであったりしただろう。面倒を見てくれる親への申し訳なさもあったかもしれない。そして、顔を洗っている時か風呂に入っている時か雨に濡れた時かは分からないが、ふと自分の姿を冷静に見た時にずぶぬれた子犬のような無気力と似ていた。それを作品にいかせると思って、ニヤリとしたと思う。いいアイデアが浮かんだ時に生きがいを感じたはずだ。

 

一方で、中学生はちょうど飛び降りようとしていた時、雨に濡れていた時に句を思いだした。目の前の景色を俳句として作品にした住宅顕信が思い浮かんだ。自分が死のうとしたところを住宅は作品として生かしたのだと知った。こんな辛くて何の希望も見えない中で自分を"いかす"方法を知った。自分が理不尽な境遇にいるからこそ、他の人とは違う目線で世界を観れることを知って前向きになれたのだと思う。

 

過去に生きた人の情熱が、現在の人を生かす原動力になる 

ちょうど最近のブログで、「生存を促す文化」の影響を受けているから自分は生きているのだと書いた。これもそのひとつの例だった。

september36.hatenablog.com

 

音楽は記憶を閉じ込める結晶「はじまりのうた」

 

何でか知らないけど感動してしまった。言語化出来てないのが不思議だ。考察したかったのでやってみる。

 

 

 

ライブハウスで弾き語りをしている人の姿を見た事があるからかもしれない。いつかデビューする事を夢見て日本各地のライブハウスを回って演奏している人を思い出す。ライブハウスの独特の陽気さと人付き合いが苦手そうな人達による会話を思い出す。

 

音楽で成功することを夢をみて熱中して作り出す。同じ志を持つ人と共に精神的に支え合っていき、同じ気持ちを共有している。

中には音楽で表現することに生きがいを見出して、儲けることは後に置く人もいる。取り敢えず、自分らしく音楽を奏でられるかを気にする人だったり。

 

ライブハウスの独特な雰囲気が好きだった。そういう自分の気持ちも、映画を見る中で楽しみを増やしてくれたのかなと思う。

 

物語のどこに惹かれたのか
希望

曲作り、曲を売るための録音作成だ。そのために必要だった過程や楽しさハプニングが描かれている。ある程度は都合が良くて何とか作ることができる。

有名じゃなくて金銭的なフォローが受けられないカツカツな状態で音楽を作るのは、苦労も多いし時の運に任せて進むこともあると思う。そういう混沌とした中で成功するシーンはあらゆる挑戦する人に希望を与えてくれると思った。

起点

この映画は、曲の制作を通じて色々なはじめの1歩を表現しているんだと思う。離婚寸前の妻との和解や、浮気をされた彼氏との関係整理、娘との和解、自分らしい手段で音楽を発信すること、新しい働き方を模索すること、これらが同時に起きている。

 

音楽をやっている中で、感動して行動が変化することはあると思っている。

自分はあった。文化祭の時に慕っていた先輩との演奏が最後になることを悲しんで色々考えた。これから先のことも悩んだ。悩んだからこそ部活を辞めようと思えた。その時の曲を思い出すと感情と記憶が蘇ってくる。

 

この作品が好きなのは、音楽のある感動のある瞬間を自分が体験していたからで、これからもそういう人達を陰ながら見守っていたいという気持ちが心の隅にあるからだと思う。

 

この映画は主題歌を聴くことで、主人公ふたりの気持ちを一気に味わうことができる。不安だけれど挑戦して楽しんだり自分なりの選択をした証が蘇る。それが美しくて懐かしくて、また自分も味わってみたいと思う。