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無を取り入れると良いとき

 

「禅」を説明した動画を観て考えたことを書こうかと。

無感動を得る

中田敦彦Youtube大学の動画で気になったものを時たま見ている。瞑想の派生であるマインドフルネスはメンタルコントロールに良いと前から聞いていたので、気になって観てみた。 

www.youtube.com

 

禅の思想は永遠と疑問を投げかけていくスタイル座禅を組んでマインドフルネスをするスタイルに分かれたと言っていた。元々は1つであったものが、伝承の過程で分かれて伝わったらしい。

 

永遠と疑問を投げかけるスタイルは、「最終的にそんなことは気にする必要があるのか?」という点に収束する発想だと思われる。

武士が「正義とは何か?」と考えていた時に「そもそも何で正義なんて考えているのだろうか。考える必要はあるのだろうか。何故、正義に取りつかれているのだろうか。」という論理的な思考で、自分の頭の中を整理することが主だったみたいだ。

 

座禅を組んでマインドフルネスをするスタイルは、「考えることによる感動を無くそう」という発想だろう。

これはパニックになった人が「考えるのではなくて深く深呼吸してみよう。」と言われて、落ち着く発想と似ていると思う。人間が意図的に副交感神経のスイッチをオンにする方法として、深く深呼吸を続けたり、呼吸を意図的にコントロールすることで、感情の流れから一時的に逃げることができる。それをパニック時ではなく、良くも悪くも感動している時に行うことで、落ち着いた生活を手に入れようという発想だと思う。

 

この説明を聞いて「禅は無感動を得るための思想+問題解決能力を高める思想」なんだなと感じた。と同時に「他の宗教は良い感動を得るための思想」であるという説明も理解しやすかった。

他の宗教は、「良い感動とは何なのか?」という点で色々な考え方に派生していき、何が"良い"のかで対立する宗教になると説明している。

september36.hatenablog.com

良い感動とは何なのか

そうした時に良い感動とは何だろうか。それは社会でより生きやすい状態に身を置くことだと思う。それは時代やその人が置かれている立場によっては違うとは思う。

september36.hatenablog.com

「その時代で求められているニーズに沿って信仰も変わっている」という目線は「ホモデウス」を読んだときに知った。

簡単なもので言えば、資本主義での成功が良い感動に含まれる。「いろいろ大変なことがあったけど、大成功してお金持ちになった」という話はハッピーエンドとして描かれる場合がある。

一方で「いやいや、そうじゃないよ。人間同士の愛こそが良い感動をもたらすのだよ」と言う人は、やっぱり人間至上主義の目線で語っている点では宗教的だ。狩猟社会が終えて農業時代になり、人間同士のコミュニケーションが問題視されるようになった時代ならではの思想である。

社会でより生きやすい状態に身を置くこと(人間至上主義&資本主義)

その人間関係で悩む人たちの延長に人間的な自由の話が入ってくる。

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 前回に人間的な自由について考えた。そこで天国と地獄の中間地点が人間らしさであると考えた。そして最終的に、他者の人格を尊重し、自己の人格を作る姿勢が「道徳」であり。「道徳」に従って生きることが自由になると解釈した。

その「道徳」を取り入れるときには、行動を繰り返していき成功体験を癖にするのが良いのだろうなとも思ったり。自分は慣れてないから甘いのだろうとも思う。

無感動の利用価値とは

ここまで良い感動を目指す信仰の良さについて書いてきた。

 

けれど、何かを良いと定義するからには悪い場合も起こる。資本主義で言えば、お金が稼げない状況が悪い状況だと言えるし。人間至上主義の価値観で言えば、社会で生きていくための方法が身に付けられなければ悪い状況だと言える。

そういった悪い状態に陥った場合は、少しづつで良いので自分よりもはるかに良い人間と比較するのではなくて、昨日よりもどのくらい進歩したのかを指標にして生きて行くのが理想だと思える。そういう論理的に思考して解決策を考えていくのが、何らかの信仰で善悪を決めたときに明確化される。

 

だから行動をしようと言うのは有っているだろう。有っているけれど、行動したところで変化しないと分かっていたら?行動してもほとんど絶望的な状態であったら?そういう状況に陥った時に「無感動を得る思想」が役に立つのだと思う。

もちろん、無感動と言うのはポジティブな側面を捨てているのも確かだ。無感動には善悪がないのだから、嬉しいという感情も希薄になる。だから、最後の砦として禅を使っていくか、必要な時に必要なだけ利用するのが良いと思える。

 

こう考えていて、感動を人間らしい自由との対面とするなら、無感動は人間らしさを捨てた先にある自由を目指しているんじゃないかと思った。

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総合してどのように生きるのか

煩悩の塊である自分はいいとこどりをして生きて行きたい。

  • 道徳を得る:他者と自身に関わる理想生活をなるべく衝突しないようにする
    →資本主義の力を使う、コミュニケーション技術を向上させて配慮を覚える、他者の感情を予測できるように知らない思想に触れる、他者が持っている善悪の基準を知っておく
  • 自身の人格を育てる:自分の過去から理想的な未来での生活に向けて、ストーリーテリングを組み、実際にその思想に基づいて行動していく、論理的な解決策を模索する
  • 論理的に解決できない不幸にあった時に無感動を利用する:呼吸瞑想を取り入れる(瞑想の種類によって感情的になるものもあり注意)、感情的な反応を一切やめる、無心でできることに集中する
    ※使いすぎると世捨て人になる気もするので、ほどほどに感動を取り入れた方が良いような気もしている。でもいっそ世を捨てちゃえ感がある人はどうぞ。

というのがまとめかな。

 

数字の∞と0について話してるみたいで面白かった。無限の夢に発散するか、根源の現実に収束するか。創造的思考は発散しそうだし。論理的思考は収束しそうだな。そういう感覚で論理的思考は「禅」に分類すると覚えやすい。

「禅」については深くは分からないけど、良いとこ取りして使えるように馴染ませてみる。