昔の人が考えて、受け継がれる話には現代にも活かせるヒントが入っている。デートをしながら、人生や愛に対する哲学を2人が対談する。たまに冗談を言ったりしながらも、それぞれの価値観が違ってもいいから、沈黙をはさみながらも語り続ける。
この映画が公表された1995年はわたしが産まれた時代に近い。父や母の世代、もしくは少し若い世代の人が観ていたかもしれない夢を味わえた。
偶然に電車で出会った2人は意気投合して、そのままロマンチックなデートをする。そして、彼女は普段の生活へと彼はアメリカへと飛行機で帰る。きっと会うことはないのかもしれない。地理的な距離というのは、情を湧かせるのも冷ますのもお手のものだ。
主人公は女性だったように感じた。わたしの性別が男性だから感じたのかもしれない。カメラには2人が真ん中に来るよう撮影されている。異性であるコメントが理解しづらいからか、恋をするときの順序を教え込まれている感じがした。
彼女と彼が話す会話、質問をして答えて、さらに質問をして、人生とか愛とか不安とか喜びについて語ることは親しくなるには良いテクニックだと思う。君の言葉には価値があるよと耳を傾けることが充足感を与えるようになる。
劇中で心に残った文章
「男女が結ばれるのは孤独に耐えられないからだ。」と述べるシーンがある。部分的に同意している。未発達な私達にはよくある事だろう。
依存する恋愛
学校生活では鬱の時期が長く、精神的に脆かったので同情を買ってもらったときに恋だと錯覚しがちだった。だから、依存的な恋愛についてよく考えることがあった。
例えば、片方が依存傾向だともう片方に対してネガティブな負荷がかかる。依存傾向な人は、片方の日常を犠牲にして少し安定した生活を送ることが出来る。けれど、それって申し訳ないし。愛していると言えるんだろうか?
こういう恋愛を考えると、精神的に自立していることが人を愛すための土台に繋がるのかなと考えてしまう。
次に、両方が依存傾向の場合だと、互いの慰め合いにしかならず結果的に現状維持になる。むしろ独り身で緩やかな向上思考を育むほうが足の引っばり合いをせずに済む。
自立して惹かれ合う恋愛、カップル
人を愛するにも、まずは自立することが必要だと感じる。それでは十分ではない。まずは土台が無いと、相手も自分もロマンチックな夢を見続けるチケットが手に入らない。
この映画で影のテーマとして描かれていたのは、恋愛にもお金が必要だと言うことだ。ロマンチックなものを楽しむにも消費しなくてはならない。お金で情は変えないとは言うけれど、そもそもお金が無ければ会うことすら難しい場合もある。
彼女が、「自立した強い女性になりたい」と語るシーンがある。この自立した後の彼女こそが恋をする相手として相応しいと感じる。
男性が語っていた
「いい父親になりたい時もあるし。それで人生を無駄にするのは後悔するような気もする。何かを成し遂げてみたい」
ここにも共感する。生物学的にみれば、浮気型と誠実型の2つの戦略を織り交ぜている動物が人間だからだ。遺伝子的にも顔つきでも分かるとされている。だから異なった欲求が内側に出てくるのも分かる。「何かを成し遂げる」ときは大抵は別の場所にいて、また違った恋をするかもしれない。
パートナーに求めるものは幻想的でロマンチックなもので有り続けることはない。
だから、2人の関係が夢から覚める前に手を打って、勘違いを防がないといけない。相手は何が好きなのか。何が嫌いなのか。自分が好きだと思っているから、相手も同じだろうというのは押し付けになってる。熱い恋が冷めたときには、コミュニケーションの質や量が重要な要素になる。
もし対話をせずに恋愛モードから覚めると、相手との違いを認識するときに合わないと思い始めるのではないか。「この部分でお互いを尊敬できなくなる」とか「この部分で相手との会話を楽しめない。」「付き合えば退屈で苦痛な時間を伴に味わうことになる」と。
理性と感性が一致してゴーサインを出す相手がほしい。そのためには、自分が理性で見たときにどう映るのかを考えたほうがいいのかもしれない。格好ではなく。どういう生き方をしているのか。何を目指しているのかと言った質問に答える準備がいる気がする。
こういう話をするとき、馬鹿にされないか不安になってしまう。勇気が必要だな。酒によって口説くのも不味い。シラフでの勇気や慣れが生活を形作るから素で重ねたほうがいい。
15回のイベントを通して直感を働かせる
参考:https://yuchrszk.blogspot.com/2019/07/blog-post_28.html?m=0
15回くらいで合う合わないが直感的に分かるんだろうね。それまでは分からなくても付き合ってみるのが良いのかもしれない。