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言語表現の限界について

 

 

歌を歌うことが好きだ。

最近はed sheeranの「dvide」をよく聴いている。

洋楽を聴くのは「友人が洋楽を聴いていて英語が上手くなっている」のと「洋楽のバラードが持っている落ち着かせる力」の影響が強い。

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古代の哲学者 ソクラテスは「音楽は最高の哲学だ」と語っていたそうだ。

ソクラテス われらが時代の人
 

 マネジメントのドラッカーはコミュニケーションは

  1. 知覚
  2. 期待
  3. 要求

 である。と語っている。特に「知覚」であることに重点を置いている。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

 

 今回読んだ哲学者の方が書いた本では

「言語の意味は環境のコードの中にある」と言っている。

言語は、常日ごろ変化している環境を「仮に言葉でくくったもの」という位置づけらしい。りんごが英語ではappleと呼ばれているのも環境の影響だと言えるだろう。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

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自分なりに考えた結果、コミュニケーションは「雰囲気」だろう。

これは感覚であり、実際の裏付けはない。

複数読んだ書籍で、コミュニケーションについての文を思い返したら出てきた。

言語自体にコミュニケーションすべてを任せるのはまずいと考えている。

海外旅行をする際に、必要なのはボディーランゲージだと言われることもある。

オシャレな音楽が流れている店に居ること、和室の部屋で正座をしていること、このあたりもコミュニケーションのひとつだと捉えている。

コミュニケーションは「人対人」のみで行われいるのではないという感覚がある。

 

 

まだ伝えきれてない。(笑)

また考えて書いてみます。

 

コミュニケーションより、上位互換の、接している現実からの影響の方も大事というか、必然的に接しなくてはならない影響の改善にも目を向けるべきというか、、、、、また分かりやすい言葉で明日に書きます。

新しい造語が必要なのか、それとも既存であるのかも探してきます。