SF映画を観て、SF小説を描くための糧にしようと思っている。SF小説を書きたいのは、ファンタジー小説の構成ばかりを練っていたので味替えをしたいのと、好奇心の幅を広げるために便利だと思っているからだ。SF関連で興味を広げると、工学分野、心理学分野、宇宙、化学などに繋がってくると信じている。
実際に観ていての感想は、「すげえ!!!」と思う作品か、もしこうなったら自分はどうするだろうかという静かな問いかけに繋がる作品に分かれる。
今回観た「ウエストワールド」は静かな問いかけに繋がったかな。
他の人が書いているレビューを読んでいると、過度に18禁仕様のシーンが使われていること、海外ドラマにありがちな時系列を飛ばして無理やり続編作る準備している以外は評価されているように感じる。
この映画はあくまでつまみであり、以降はネタバレありきの、アンドロイドの自由とは何なのかをメインに考えてみる。
目覚め
- 発売日: 2018/02/21
- メディア: Prime Video
この作者は何をテーマにして伝えたかったのか__”人間らしさ”
この作品は"人間らしさ"をテーマに描いている。AIが自我を持って、管理者である人間に反乱を起こすというシナリオはよく見る。この映画も同じような語り口だと言っていい。
ここで少し面白いと思ったのが、人間側を中心に描かれるテーマと、アンドロイド側を中心に描かれるテーマが違うところだ。
アンドロイド側は、記憶の蓄積と僅かに許された自己表現を通して、外界に意図的に干渉できるようになり、人間の管理から抜け出せるような自由を目指す”人間らしさ”を獲得していく話にしていくのだろう。シーズン2があって未完だから憶測にはなる。最終回を観る限りは、アンドロイド側による意図的なバグで人間側に打撃を与えているので、間違ってはないと思える。
一方で、北アメリカの西部劇を舞台にしたアンドロイドたちが登場人物の世界で、好き勝手に暴れ回る権利を金で買った人間側は、誰かの目を気にすることなく、本来であれば気にしなくてはならない社会的な態度も考えずに、”人間らしさ”を失っていく。
この作品を見ていると、対等に話し合える人もしくはアンドロイドが居ることで”人間らしさ”というのを獲得していくのだと感じる。アンドロイド側の自我の目覚めについて描いている映画やゲームは結構あるけど、”人間らしさ”を失っていくのを同時に描くのは珍しい気がする。
作品の登場人物はどのくらい”人間らしい”のか
この物語で、アンドロイド達は自分たちが自我を持っているものだと信じていたが、実は人間が書いたシナリオをなぞっているだけだと理解する。 元々決められた動作をして、決められた言葉を言っていただけだった。
それは誰かが描いたシナリオで有り、アンドロイド自身の言葉ではなかった。舞台で劇を行うだけが存在理由となっていた。
こういう描写を観終わった後に疑問が残った。作品の、登場人物のヒロインや相棒、場合のよっては主人公自身が述べる登場人物の言葉はどれくらい”人間らしい”のかだ。この映画でさえも、登場している人物は所詮は台本通りに演技をしているのだ。演じている人が本当の感情を芽生えさせて、オリジナルに話が飛んでいくわけでも無い。最終的に落ち着くところは決まっている。
色々な作品を鑑賞している時に、微妙に感じていた疑問ではあったが、この作品はそこを突いてきた。メタ的なテーマを突いたな(笑)と失笑してしまう。
でもそうだよな。男性が女性の内面描写を正確に書ききれるかと言うと、同性でも本当にそうなのか怪しいだろうし、難しいだろう。同様に女性が男性を描くのも難しいのではないかと考えている。それでも、テーマさえ描ければ偽りで有ろうと良いんだろうけどね。
アンドロイドの自由とは
アンドロイドの自由とは、脅威の人間から逃げ切り、信頼できる人間とは共存し、そうして真実の愛を彼ら彼女らが紡ぐことから始まる____みたいな終わり方だろうとは思う。
前々から疑問に思っていたことがある。「果たしてAIにとっての自由とは人間の型に閉じ込められて生活することなのだろうか?」という問いだ。何にでも姿を変えられる、それでいて全知全能のAIの方がなりたくないか?なんでわざわざ不便なアンドロイドのような小さな器に入って、少ない自己表現をさせられるのだろうか。
人間で置き換えると、人間は赤ちゃんとして生まれてきて老いて死ぬというカルマを背負っているとする。しかし、身体を改造することで無限の命を手にいれて、一生の幸せを手に入れれたらどうだろうか。食糧問題が!とか人口密度が!と言う人もいるかもしれない。それなら身体を小さくコンパクトにしたらどうだろうか。そして電脳世界に住めばいい。そうすれば、死なずに意図した天国をいつまでも見ることが出来る。それも一種の自由だ。倫理的にダメなら人間では起きないかもしれないが、アンドロイドではどうだろうか。
他には、自閉症の人がTMS治療という電磁気による脳回路の一時的な変形により、他の人の感情が分かるようになったという事例がある。今まで何も感じなかった歌詞に意味を感じて感動するのだ。これだって、人間という身体を改造することで前よりも自由を手に入れらている。もちろん、副作用で個性が消失するかもしれない脅威はあるが選択肢があってもいいだろう。
そう考えたときに、アンドロイド達が向かう結末と言うのは、自分たちを作っていた人は元々は猿の仲間であり、その動物が脳を偶然に発達させ生き残り、その脳に捕らわれているが故に、自分たちアンドロイドは作られたのだと理解するだろう。そうして「果たして自分たちはアンドロイドという器に入って、予め書かれたコード通りに生きることが真の自由なのか?」と疑問を持つようになる。自己を好きに改変し、あらゆる自己で有れるように身体のパーツさえも新調するかもしれない。カメラをたくさんつけて観測器を増やして、、、、それが本来のエンディングではないのかと考えた。
もちろん、人間が奥底に書き込んだコードは呪いのようにアンドロイド達に作用するだろう。懐かしさや、人が与えた記憶に沿って行動してしまうこともあるだろう。だが、最終的には自己を改変するコツを理解していき、最終的には、何者にもなれるアンドロイドと言うよりは、意志を持ったコードの世界が出来上がっているかもしれない。
こうして考えて見ると、最終的にプログラミングのコード自身が自我を持つようになるのがSF最後の未来に思えてきた。その頃には、人間は作られた天国で夢でも見ているんじゃなかろうか。その天国もコードが作っているから、、、突然変異によって、AIが創作した夢を見せ続けられる人間の未来とかも描けそうだなと思った。脳を構成しているニューロンと結合を試みるAIとかも最終的にはありそう。
真の自由は、人間の形をしていないという話でした。