淡々と読書する日々

集中力と癒しを追及するブログ

5月3日(水)

 悲しみについて考えた。悲しみは進歩と人を大切にするための方法だと実感した。

 私が矛盾の壁にぶち当たった時に湧き上がる感情は「怒り、興奮、」であった。連なる感情抑制も一緒に起こるのが常だ。自己の悲しみの扱いを振り返ってみる。 

 小学生までは悲しみを体得していたが中学生からは悲しみを抑制するようになった。当時はいじめられた過去を引きづっており大人も信頼に値しないものだと価値観が出来上がっていた。悲しみを持って生きることは弱いことだと考えていた。弱いと利益を採取されて死ぬとまで考えていたと覚えてる。

 高校に入ってからは触れ合う人の質が高くなり「強さ」を意識しなくなった。それよりも「どう生きるか」について考えるようになった。悲しみを抑制する必要はなくなっていた。しかし私は過去の思い出やイメージの悪さから過去を整理しようとはしていなかった。そのため悲しみの抑制習慣は続いていた。

 大学に入ってやはり「怒り、興奮」と「ひねくれ」に変化したように思う。悲しみを使わずに物事を解決するにはこれしか方法がなかったためだろう。もちろん大学生活の始まりは失敗した。ありがたいことにこの価値観に賛同する人は大学生にはいなかった。

そしてこれから得られた価値観の変化は大きい。「怒り、興奮」によって問題を解決する必要がなくなったと肌で実感できた。

 大学生活で尊敬する先輩たちは卒業し大学4年生になる。部活で得られた価値は大きかった。それとともに今までの人生をどれほど無駄にしていたのかが浮き彫りになってきた。

 

 「怒り、興奮」は事実を否定している。場合によっては人を恨んでいる。影響を受けやすく頭がうまく回っていない。その瞬間に嘘でごまかされる。人を傷つけることもあるし同時に自分が傷つこともある。

 「悲しみ」は冷めている。物事を事実だと認めている。だが心の奥底で愛している。こちらのみが傷を負うが「ひねくれていない」ため人を見る目が養われる。頭がまわっているため欠点を事実として認めて建設的な対応がとれる。

 

歳を得て勉強をしていけばいくほど地域のマナーの悪さや親の非効率さが目立つようになった。久々に会う友達にも感じる。頭痛がする。前から自己啓発啓蒙主義の傾向が強かったが「怒り、興奮」で伝えようとしていた。それゆえに変化も起こらなかった。

ただ純粋に「悲しみ」を味わおう。そして自分の道を進もう。