気になった記事があったので考えてみたい。内容は「自分の意見に肯定的な人とばかり付き合うと破滅する」ことへ注意を促している。
www.omg-ox.org
個人としては 性格や過去の流れから、必要な期間でもあるとみている。
実際に考えて、結論を出してみたい。
肯定:そのとおりだと判断し認めること。「―文」。一般に、同意すること、価値があると判断すること。
こうてい【肯定】の意味 - goo国語辞書
否定:そうではないと判断し斥(しりぞ)けること。打消し。
ひてい【否定】の意味 - goo国語辞書
逆に、つねに否定し続ける人間と一緒にいた場合を考えてみる
行動を監視して、常に否定行動をとってくる。
目標が同じ位置にあるのなら、目標修正のための否定は理解できる。(目指すものの違いは理解で乗り越えれると思う。)
だが、常に否定を行ってくるのは精神体力の消費を目的に行っている可能性が見られる。プラシーボ効果を見誤ってはならない。
その場合、対応する行動のお勧めは以下の二つがある。
- シャットアウトしてなるべく近づかないようにする:(WINWINを目指す方法)
- やられたらやり返す戦法をする:(ゲーム理論に乗っ取った最適な方法だとか)
ここで否定し続けるひとと居た場合、事実として精神的に疲れることが挙げられる。
否定情報すべてが悪くはないが、精神的疲労を伴うことを前提ではなしを続けた方がよい。
紳士、淑女な人に咎められた場合はすっと入ってくるので不思議に感じる。自分の目標に沿って指摘するからだろうか。
肯定的な意見には、すぐに乗っかる理由を考えてみる
愛情ホルモン、依存ホルモンと言われているセロトニンが低下しているかもしれない。自信がない。愛情が枯渇している。カラ元気でもないとやってけない状態だと見れる。
ストレスを抱えており消化することが間に合ってない。そこで人の肯定意見のみを受け入れる。そうして精神の安定を目指す。他にもお酒やたばこでも満たせるがお勧めはしない。
別の方法で解消するなら、運動や通常のコミュニケーションが挙げられる。慢性的な原因があるなら、行動によって解決するしかない。
肯定意見に慣れることでの弊害
無差別な肯定意見を求める理由 は問題解決ではない。精神の安定だ。そこで、間違った様式を肯定されることがある。
脳は性質上、自分がした行動に後から理由をつけて「こころ」を定義していく。一貫性を持った人間になりたいという思いから、認知が歪んでいく。
あらためて、基準を疑う時間を作ったほうがいいかもしれない。
肯定に依存して精神を安定させるのは愚かではないか?という問いは面白かった。
次は 区別された基準 が気になってくる。
親しき中にも礼儀あり
大学生になり、県外の人たちと触れ合い、バイトで人と接しているうちに 価値観が異なる のが当たり前だと気づかされた。
脳 は普段よく目にするもの=「正しい」と推測しがちだ。
直観にたよる人間ほど 批判してくれる人や信頼している人からアドバイスを定期的にもらうのがいい。個人で考えを見直すのも手段のひとつだ。
それでいて 相手の世界観に沿った助力 として 批評や批判 を返してあげるといいかもしれない。
自立した人との「結婚」や「付き合い」が最適解になる?
結婚生活や恋人関係として求める 理想の結婚生活像、恋人像として相互依存の関係がある。これが未婚の人や離婚した人に比べて、幸福度を挙げているとみていい。
そこで、精神のよりどころを依存する 度合い に注意をするべきだと思っている。
依存すればするほど 集団的無知(:相手を信頼しすぎて正常に判断できなくなる。) に陥りがちなので 個人の振り返り時間をそれぞれ確保した方がいいと思う。
夫婦ともなれば多くの時間を一緒に費やす。個人としての時間を持つことをお勧めする。
愛の「質」を考えると 与える側も考えないとなあ。双方向になると親友とか親愛というのかな。